『4次元の林檎』
荒地出版社;大上丈彦 著
2000年11月刊 (1,600円+税) 数学をやり直してみたいけど、いまさら高校参考書を買う気しないし、 ***目次***
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また、誤植と補足を用意しています。ご参照ください。
はじめに
数学ほど「学生時代のイヤな思い出」を一手に引き受けた 教科もめずらしいだろう。私自身、ロクな思い出はない。 しかし、何をどう間違ったのか、数学でメシを食うようになってしまうから人生は面白い。本書は私が高校3年のクラスで講義用として使っていたテキストを書き直したものだが、 出版にあたって、次のことに配慮した。
●受験生向けでなくて一般人向け
でも、「受験生向け」ってのはどういうことだろう。難しいのかな。バカにしてるのかな。尊敬してるのかな。高校生は一般じゃないのかな。よくわからないが、ここでは次のように決めた。
- 受験生は、数学の好き嫌いは無関係。打算的に行動しがち。
- 一般人は、公式等の記憶はないけど、数学に思い入れがある。
こういう基準で、「一般人向け」ということで。数学の思い入れといっても、好きな人もいれば、嫌いな人もいるだろう。むしろ嫌いだった人の方が、「入門書」には惹かれるものかもしれない。別に受験生が読んでも筆者としてはいっこうに構わないが、受験生は受験があとxヶ月になると「xヶ月で間に合う数学」みたいな本を買うらしい。受験生は精神的に追いつめられがちだからね。もっとも、著者もあまり人のことは言えないが(ついうっかり、「7日でできるロック・ギター」みたいな本を買ってしまったりね(笑))。まあ、私の書く本は、そういう用途には向かないだろう。
●中級向け
世の中に、初級と上級の本は結構あるような気がするが、中級向けが少ない気がする。まあ、「数学中級」というランクが存在するのかどうかは確かに疑問である。数学はなんとなく
できるか、できないか
の学問であるような気もするからだ。そういうことを考えると「中級」をターゲットにした本があまりないのもわからんでもない。本当はよく探せば、中級の人が読むべき本はあるのだが、そういう本は「受験参考書」の棚には置いておらず、理工書の棚にあったりする。で、
成績的に焦ってる中級者には読まれない、と。
余裕がある上級者はヒマだから読んでたりして、そうすると、上級者はより上級になっていく。そもそも、焦ってる人は、数学が「おもしろい」なんてタイトルの本を見たら
むしろムカつくかもしれないね。
だって、面白くないよねぇ。数学の成績次第で自分の進路がどうなるかって時なんだから。初級者と上級者の間には、確かに「壁」があると思う。それがいったい何なのかはよくわからないが、確かなことは、
難しい概念を易しく説明しようとして、
幼児語で説明しても、易しく説明したことにはならない
ということだ。初級の説明はわかったが上級の説明がわからない。こういうときは、別角度からの説明を聞かないと先には進めないのだが、受験に縛られると別角度からの説明に耳を傾ける余裕がなくなってしまうだろう。
●算数のできた人向け
算数の得意だった人は、たとえ今の数学 の実力が初級以下でも、
数学ができないわけがない
と、筆者は思っている。読者として、ぜひターゲットに加えたい。
●入試問題を題材にする
これは中級者が手に取りやすいように、という意味もあるが、「モチベーション」の方が大きい。やっぱり、何か試験でも 通るようにならないと、やった気がしないだろう。受験生だろうと一般人だろうと、「受験」は相手としては申し分ない。ただ、本書の構成上、問題数はどうしても少なくなる。リクエストがあれば、いずれ問題集みたいなものを出したいとも思う(リクエストして下さい(笑))。
●網羅的でなくていいから丁寧にやる
なんとなく、広く浅く知識を持っているよりは、「◯◯のことならアイツに訊け」みたいになるとスゴイような気がする。だから、どーせやるなら詳しくやるべきだ。本というメディアで「手取り足取り」教えるというのはかなり困難な気がするが、本には本のいいところがあるのだから、それを分析して利点を生かせばいい。本の場合には、傍に先生がいるわけではないので、本の中にある情報でストーリーが完結しないといけない…って、これ「小説」だったら当たり前のことではないか。「よく考えてみると、『鸚鵡を捨てに行くだけの話』じゃないか」みたいな本(by 向田邦子)もあるが、そういう本がつまらないわけでも無駄なわけでもなく、立派にその存在価値を主張している。数学でもそういう本があってもいいよねぇ。
●厳密でなくていいから感覚的にやる
「何らかのことに精通すれば、他のことにも類推がきくようになる」と筆者は信じている。自分はアメフトしかしたことがないから、大事な展覧会の前にうっかり絵を汚してしまった美術部の部長の気持ちは 「きっと、試合前にケガしたみたいなんだろうなあ」と類推するしかない。全然違うような気もするが、それほどハズしているとも思えない。この「類推できる」という能力は非常に重要である。新しいことを伝えるためには、筆者と読者で共通の認識が必要なのである。その上で、「◯◯は××に似てるよ」と教えていく。例えば、ある新人歌手について「どんな人?」と尋ねられたとき、「宇多田ヒカルに似てるよ」と言っても、聞いた人が宇多田ヒカルを 知らなければ、何の説明にもならないだろう。宇多田ヒカルを知っていれば「ふーん」と思えるだろうが、それでも結局はその新人歌手本人を
見てみないと、わからない
だろう。当たり前だ。数学でも同じく、どんなにわかりやすい説明でも、自分で問題を解いてみないことにはわからないのだ。だから多少厳密でなくとも、説明の段階では
こんなもんか
という内容を伝えられればいい。それを具現化するのは、「教わった側の仕事」である。
●歴史小説のように
本書はもともと講義用テキストだと述べたが、さらにその前身は筆者が大学初年度くらいに書いた原稿である。大学初年度だから、数学の知識も乏しくて(今もあんまり変わらんか…(笑))、いい加減な記述も目に付くのだが、「勢い」は一番いいような気がする。やっぱり知りすぎると切れ味が鈍る。知らなければ断言できることも、例外を知ってしまうと、「そうは、言い切れないな…」となって、
「〜であることもある」
とかいう弱々しい文になってしまう。弱々しい文を書くのは簡単である。間違いではないからだ。しかし、
間違いではない代わりに、役にも立たない
記述である。逆に、あえて間違った文を書くのは非常に抵抗がある。世間からのツッコミはやはり怖いからだ。しかし、教育ということを考えると言い切った方がいいことも多い。例えて言えば、「胃は何のためにあるのか」で、
- 肉を消化するため
- 食べ物を貯めておく
- 胃酸で細菌を殺す
どれか、かもしれないし、全部、かもしれない。進化の過程で「たまたま」こうなっただけで、目的なんてないかもしれない。よーするに、「何のために」なんてわかるわけがないのである。確実と思われた史実や理論も、ことごとく覆されてきた。これが人類の歴史である。しかし、
そんなこと言ったら、全部「わからない」になっちまう
だろう。当たり前だ。多分きっと、これが「正しい」。でも、こんなことを「胃」を初めて知る子供に言う必要があるのか?どのくらい詳しく言えばいいかは、結局のところ、相手に依存するのである。本というメディアでは、読者のレベルがまちまちになるので、この問題はどう解決したらよいだろうかといろいろ考えたが、
最終的に、考えるのをやめた(笑)。
なぜなら、間違いを指摘できるということは、本書より高いレベルでわかっているということだからだ。本書はわかってもらうことが目的なので、筆者がツッコミに耐えればそれですむ話である。それよりも、「役に立たない記述」に埋め尽くされて、つまらなくて途中で読むのを辞められてしまう方がツライ。本というメディアは、自分からは「読んで〜」と声を出すことはできないのだから。これと似たようなコンセプトの文学ジャンルがある。それは、
歴史小説
だ。小説には武田信玄と山本勘助の会話がしっかり再現されていたりするが、これはどの史料にもない。あるわけない。本当のことを知っている人はいない。ではその「再現」とは何か。
うそ
である。でも、小説とはそういうものだろう。小説は、そんなつまらないところの正確さを求めてはいない。もっと大きいものを伝えたいのだ。だからといって、史実まで曲げてしまっては歴史小説ではなくなってしまう。
「史実に基づき、行間を埋める」
これである。数学でもこういう本があってもいいだろう。ある箇所だけを見れば間違いだが、全体を通して、あるコンセプトで書かれているということが伝われば、読者の方で修正して理解してもらえると、筆者は期待している。
●先生向け
家庭教師などで誰かに教えるときに使って欲しい。別にこの本の通りに教えてくれなんて気持ち悪いことは思わない。
全然別系統の教え方があるんだ
ということを念頭に置いて欲しいのだ。初学者の躓きやすいところをちょっと頭の隅においておくだけで、全然違ってくるものなのだ。
●統一のテーマを持たせる
これも小説だと思えば当然のことだと思うのだが。
本書の隠しテーマは、
日常的なことから法則を抽出して、それをもとに、もう一度日常を見直すと、別のモノが見えてくる
である。え、ここに書いたら「隠しテーマ」じゃない?
まあいいじゃん。ね。
というわけで、書き始めた当初は「教科書ガイド」としても使えるように、という野望もあったのだが、結局いわゆる教科書ガイドとは似ても似つかないものになってしまった。目次を見ればわかると思うが、剰余定理から入る本など見たことない。剰余定理と指数対数とベクトルでページ数的にいっぱいになってしまい、予定していた微積分は続編にまわってしまった。
でもね、
マニアックでいいんだもん!
数学はしょうもないことに「AがわからないとBがわからない。BがわからないとAがわからない」という感がある。
これじゃあ、無限ループじゃん
と言いたくなるが、解決法はひとつ。AでもBでもどちらでもいいから、とにかくわかった気になることだ。そうすると、両方わかる。AがわかればBがわかり、BがわかればAがもっとわかる。わからない悪循環ではなくて、わかる良循環になる。つまり、
最初は、気合い!
である。自転車や水泳に苦労した人は多いだろうが、なんといっても第一の苦労は「最初」にある。オリンピックに出ようとするなら話は別だが、基本的に自転車や水泳は、運動神経とあまり関係ない。ママチャリに乗るくらいなら誰にでもできる。数学もそうだ。数学者になるならともかく、大学入試レベルには誰にでもなれる。もちろん、入試がタイヘンでないとは言っていない。たとえ町内水泳大会だって100m平泳ぎで優勝するのはタイヘンだろう。でも、100mを平泳ぎで泳ぎきれるようになるのは、不可能ではないと言っているのだ。それなりの文章読解能力、すなわち、推理小説を楽しんで読めるくらいの読解力と論理・推理力があれば、大学入試の数学くらい、理解できないはずはない。理解できないとしたら、それは説明が悪いからだ。数学は積み重ねだといわれるけれど、筆者に言わせれば「ジグソーパズル」である。手の付けやすいところから手を付けて、それを手がかりに全体を作っていけばいいのだ。ただ一応、このへんから始めるのがオススメですよ、と文部省が教えてくれている。つまり教科書は、
数学ジグソーパズルの「文部省おすすめコース」
なのである。教科書でわかりやすいと思う人は、別に、教科書で勉強すればいい。わかりにくいと思う人は、「おすすめコース」が嗜好にあわない人である。別に文部省のおすすめ通りやらなくても、他にも方法はあるはずなのに、実際問題、あまりみかけない。入門書が1種類しかなくて選ぶ余地がないのでは、好きか嫌いかの2択になってしまう。参考書も教科書ガイドも、多くは教科書に準拠 していて、おすすめコースの種類は増えていない。でも、
それはそれでいい。
そういうものも必要だし、その方が便利に違いない。しかし、
全然別の入門書が、一冊くらいあってもいいじゃん
と思った。別角度からの説明が理解の助けになることもあるだろう。それに、単に辞書として使いたいなら、目次を探せばよいだけのことだ。そんなわけで本書は、数学ジグソーの「とある予備校講師のおすすめコース」である。範囲の区切り方も説明の仕方も、教科書とは違うけれど、どちらが好きかはお客さんが決めることだ。こんなおすすめコースよりもいいメニューがあるぞ、という先生は(きっとたくさんいるだろう)、自分で提唱すればいいのだ。 日本ではそういう試みが少なすぎる。いずれにせよ、教科書にせよ本書にせよ、わかりにくいと思ったら
それは著者が悪いのだ。
文部省検定済の教科書は、ウラ表紙あたりにズラりと並ぶ執筆陣がそうそうたる面々で、うっかり悪口を言ったりしたら、先生方の親衛隊から
刺客が派遣されて抹殺されてもおかしくない
感じである。一人一人が筆者の数百倍はエラい人達ばかりなので、全部あわせて数億倍はエラいだろうなと思うが、それでも、教科書の記述が理解できないからといって、自分のせいだと思わないでもらいたい。筆者は今でこそ数学の教科書を書いてみようなどと大それたことをしているが、実は高2まで1次関数のグラフさえまともに描けない状態だった。そんな状態だと、
つい執筆陣の権威に負けて、自分を責めてしまいがち
で、筆者も当時は自分を責めていたけれど、本当はそんな必要はなかったのだ。権威のカタマリの教科書でさえ自分を責める必要はないのだから、この本が理解できなくても、筆者はたいしてエラくないし、
安心して、筆者のせいにしてもらいたい。
それが筆者の願いである。自分を責めずに、別の入門書を探して、違う説明・自分にあった説明を探す努力をすることだ。絶対的な「いい説明」など存在しない。自分が理解できる説明が「いい説明」なのである。
なぜ剰余定理からはじめるか、というと、
まさに筆者の趣味
である。ふはは。筆者はこの定理が好きなのだ。
筆者の趣味で作った教科書で、一人でも多くの人と数学の楽しさを共有できたら幸いである。
執筆の機会を与えてくださった、編集の椎野さんに感謝いたします。
第1章 剰余定理の実戦的な使い方
「剰余定理」は数学の問題を解く上で、知っていると
かなり便利でかなりおトクな定理
なのだが、ほとんどの高校生は習うそばから忘れていってしまっているのが現状だろう。まあ無理もない。便利さを誰も教えていないのだから。
この章では、剰余定理を使い尽くそう。
剰余定理単独ではそれほど面白くはないが、我々が当たり前のように使っている(普通の)掛け算や割り算の「筆算」と、小学校でも出てくる「n進数」の考え方、そして、ちょっとした計算テクニックである「組立除法」を組み合わせると、多項式への代入計算が驚くほど簡単になるのだ。常日頃、「自分は計算ミスが多い」と注意力不足を感じているみなさん、足りないのは注意力ではない。実力だ。この章を読んで実力をつけよう。
第2章 指数関数の構造
「2の0乗ってなぜ1なのか」。まあ、「定義です」ってのが優等生的回答なのだけど、
それでは全然面白くないし、魅力がない。
いつの時代も魅力的なのは優等生じゃない。「ちょっと不良」がモテるのさ。だからここでは、数学もそのように扱う。
え、何を言っているのかわからない?
つまり、指数関数は数学における「必殺技のひとつ」なんだよね。例えば「背負い投げ」とか「袖つり込み腰」みたいな。で、「この技はこういう技です。これが定義です。おしまい。」という説明が
おもしろいか?
こんな説明をえんえんされたところで、ちっとも面白くないだろう。数学をおもしろくなくしているのは、その教え方にあると、教師はよく認識すべきだ。技というのは、「敵がこうきたら、この技で倒せる」というところが魅力なのである。数学で言えば、「2の0乗ってなぜ1なのか」を「定義です」教えることに魅力があるのではない。「2の0乗をなぜ1に決めたのか」、そこにドラマがあり魅力があるのだ。
第3章 ベクトルと一次変換
「ビデオの予約録画」は便利なものだが、できない人には苦痛と屈辱の源であるように、便利なはずのベクトルも使えない人にとっては地獄の牛頭馬頭なのである。まともなベクトルの解説が聞きたいなら、別の本を読めばいい。ここでは
まともでない説明を心がけた。
よーするに、優等生的で教科書的な説明は、正しいかもしれないが、役にも立たないのだ。技というのは、「敵がこうきたら、この技で倒せる」というところが魅力なのである。数学で言えば、「ベクトル」を「こういうものです」と説明しても、そこには魅力がない。「こんな便利なものです」と説明しても、うさんくさいだけだ。
ベクトルを発明しようとした、そのモチベーション
に、ドラマがあり魅力があるのである。数学に限ったことではないが、「理解する」というのは、定義を覚えることでも、問題を解くことでもない。魅力を知ることなのだ。
誤植の情報を送ってくれた皆様、ありがとうございます。
大上「あれだけチェックしたのに、まだミスがあるとはねぇ。ちっきしょー。恥ずかしー」
八木「まあ、、、、しょーがないっしょー」
大上「完璧なものを出すのが無理でも、完璧にフォローすることは可能だと思うから、そっちをガンバルか」
内容 | page | 位置 | コメント |
---|---|---|---|
誤植 | p.39 | 1行目 | 「少数」→「小数」 |
誤植 | p.42 | 1行目 | 代入したら「8」です。12じゃあないですね。あほか。 |
補足 | p.62 | 脚注 | 数学用語(?)で、「健全性」はsoundness、「完全性」はcompletenessです。それが何を意味するのかは、この場での説明はご勘弁を。 |
誤植 | p.80 | 下から3行目 | 10の43.903乗ですね。つまんないミスをしてしまった。
大上「よく見つけたなあ、これ。」 八木「こんなの間違わないでよー。」 大上「見つけてよ、出版前にさぁ。」 |
誤植 | p.81 | 12行目 | aのn乗は、aのx乗の間違いです。 |
誤植 | p.86 | 4行目 | 「この章のはじめに」は「この節のはじめに」が正しく、74ページの問題のことです。sectionは「節」ですね。素直に「このsectionのはじめに」と書けばよかった。 |
誤植 | p.86 | 下から3行目 | 「といのが」→「というのが」 |
補足 | p.129 | 下から4行目 | 「ピタゴラス定理」は「三平方の定理」のことです。別にこんなことはどうでもいいというきもするけど、注釈を入れておいた方が親切でした。 |
大誤植 | p.145 | 下から2行目 | 「OC=k(4OA+3OB)」で、突然4と3がでてきています。意味不明です。この部分の原稿はもともとp166に続く内容だったのですが、構成上前に持ってきたとき、内容の整合性が失われたものです。まるっきりミスです。面目ない。修正しようがない。。。(^^;)
大上「なんで〜。」 八木「う〜ん、それでもなんとなく読めてしまうからコワい。。。」 |
補足 | p.146 | 図版 | 三角形の頂点の記号が本文の説明と違っています。意味が通じないわけではないですが、不親切でした。 |
補足 | p.156 | 問題 | センター試験は1991年からなので、1990年の段階では正確には「共通一次試験」ですね。 |
補足 | p.162 | 後半 | 「結果はこれ」ってのは、手抜き臭かったですかねぇ。筆者としてはテンポアップのつもりだったのですが、でもそれまで丁寧に説明してきたのだから、その場では省略しても、あとで「補足」かなんかでフォローしておくべきでした。ちょっと反省。 |
誤植 | p.163 | 6行目 | 「ベクトルCH・ベクトルAC」ではなくて「ベクトルCH・ベクトルAB」ですね。 |
誤植 | p.165 | 5行目 | 「CはBMの中点だ」→「MはBCの中点だ」 |
誤植 | p.200 | 最後の数式 | 「さらに」のあとの式で、イコールの右側のベクトルが、なぜか1と-1が入れ替わってます。なんでそんなことになったんでしょうか…。
大上「なんでこれが見つからないんだ…」 八木「見逃したか…。う〜む」 |
補足予告 | p.207 | 2〜4行目 | 2行目と4行目が同じ式ですね。連立方程式の例として、解ける例、解が複数でる例、解けない例の3つを出すつもりだったのですが、普通の「解ける例」が抜けてますね。よって、いきなり例外的なものが最初にきたので、ちょっと変なことになってしまいました。これはこの下の方であらためて補足しています。 |
補足 | pp.208-209 | 全体 | 行列で「行」といえばヨコ、「列」といえばタテの数字の並びを指すのですが、その説明が抜けているため、予備知識のない読者にはわかりにくかったかもしれません。筆者としては、p206の欄外で説明したつもりになっていたのですが、、、説明になってませんね。反省。 |
誤植 | p.229 | 下から2行目 | 「=0」が抜けてますね。まあ、筆者としては、「左辺はこうなるよ」くらいの勢いで書いたのだけれど、抜けてることは抜けてる。 |
補足 | p.230 | 下から3行目 | 下から3行目の式を変形すると一番下の式になる、というところ、このへんを書いているとき筆者はノリノリだったので(長期間にわたって原稿を書いていると、なんだかんだいって気分の波があるのです…)、サクっと変形できてしまったのですが…、「2乗」を「^2」と書きますと、
(x-y-1)^2+(3x+2y-13)^2=0 <==> 6(x-y-1)^2+(3x+2y-13)^2=0 という同値変形を入れると変形できます。実数範囲の議論ですから、これでよいはずです。 しかしこれは、筆者が執筆上気をつけていた「詳しい人のひとりよがり」にハマってますね。 八木「ぜんぜんダメですよ〜。こんなの、普通思いつくわけないじゃないですか」 大上「でもオマエがチェックしたんだろ〜(笑)」 八木「だって、なんとなく 論理的には合ってるし、読み流しちゃったなあ」 |
補足 | p.257 | 下から6行目 | 「260ページで似たようなことをやっている」はより正確には「260ページから似たようなことをやっている」です。しかし、「似たような」という言葉は筆者が使わないように気をつけていたキーワードだったのですけれど、つい使ってしまっていました。とほほ。似てる/似てないは主観的なことなので、読者に決めてもらうべきことなんですよね。他の箇所では、「筆者は似てると思うんだけど、どうかなあ」みたいな書き方になっていると思うのですが、ここだけはヌケました。というわけで、似たようなことに思えないという場合も十分にあり得ます。すいません。 |
誤植 | p.264 | 多数 | ここは連鎖的に計算を間違っている(あ痛ぁ)ので、悲しいことに、たくさんミスがあります。
8行目 sin(-60)はsin60ですので、したがって12行目はsinの前のマイナスを取る。15行目も同様。18行目も同様。 八木「やっちまったかー」 大上「計算ミスは、仕方ないけどねぇ。本の信用問題だからねぇ」 |
誤植 | p.265 | 3行目 下から3行目 |
3行目「Y=」のあとのマイナス符号はいりません。同様に下から3行目の「y=」のあとのマイナス符号もいりません。しかしまあ、本文中で「さーて、あってんのかいな」とチェックしてるのに、「あってないじゃん」ねぇ。なんだそりゃ。これはきっと、原稿段階では正しくて、校正段階でミスが生じたのかな。いかんなあ。 |
p.207- について
207 の連立方程式、第2式と第4式が一次従属ですね。
なぜこんなミスをしているのかというと、
一次独立な例と一次従属な例を用意していて、
校正段階で間違えて片方だけ削ったというストーリーです。
ああ、マヌケすぎる。
p214の5行目「答えは一通りのハズ」は間違い。
これは答えが複数出る例です。
ガウスの消去法を使って、なるべくゼロが多くなるように
(というか「やり方」どおりに)処理していくと、次のような感じになります
(この通りにはならなくてもビビらないこと。やり方次第でいろいろになりうる)。
11 | 0 | 0 | 13 | 50 |
0 | 11 | 0 | 3 | -2 |
0 | 0 | 11 | -8 | -2 |
0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
これを、行列から式の形に戻すと、
11a | + | 13d | = | 50 | ||
11b | + | 3d | = | -2 | ||
11c | - | 8d | = | -2 |
これらは、
11a | = | -13d | + | 50 | ||
11b | = | -3d | - | 2 | ||
11c | = | 8d | - | 2 |
となり、これは「dが決まると自動的にa,b,cが決まる」と読むことができます。
だから、p213の「答え」のように、d=3 と決めれば、
それにしたがって a=1, b=-1, c=2 と決まりますが、
別に d=3 に必然性はないので、例えば d に 2 を入れたり 5 を入れたりすることで、
無限の答えの組が存在するわけです。
こんなことになっているのはご承知の通り、4つの式が1次従属だからです。
4つの式が1次従属かどうかの判定はわかりやすい場合ばかりではありませんが、
ガウスの消去法を使った場合、変形の過程で必ず全ての成分が
ゼロになる行が生じるので、その時点で
「ああ、この連立方程式は1次従属だったんだな」と思うことができます。
つまり、バシっと解ければそれで1次独立を証明したことになり、
全ての要素がゼロになる行が存在すれば1次従属を証明したことになり、
最終的に解けなければ与えられた連立方程式にもともと矛盾があった
ということになるのです。
ちなみに、d=3 のときは a, b, c すべて整数になりますが、
d=2 など他の多くの場合は整数にはなりません。
では、どんな場合に整数になるのかを考えてみましょう。
別にこの問題では解が整数の組になることを要求してはいないので、
これからやることは余計なことです。
さて、解が整数の組になるためには、よーするに
11a | = | -13d | + | 50 | ||
11b | = | -3d | - | 2 | ||
11c | = | 8d | - | 2 |
の全ての右辺が11の倍数になればいいので、mod 11 を作用する
(11で割った余りを考えるということ)と、右辺は、
-2d | + | 6 |
-3d | - | 2 |
8d | - | 2 |
さらにマイナスを処理しましょう。
mod 11 を考慮して、-2を9に変える(11で割って「-2余り」というのは
「9余り」と同じことだから。)などすると、
9d | + | 6 |
8d | + | 9 |
8d | + | 9 |
第2式と第3式は同じになるので、
9d | + | 6 |
8d | + | 9 |
が両方とも11の倍数になればいいですね。
第1式の値が11の倍数になるためには、11n=9d+6 を解いて d=(11n-6)/9
となりますから、今度は「11n-6が9の倍数になればいい」ですね。
同様にmod 9をとると、この式は 2n+3 になります。
これが9の倍数になるためには、9m=2n+3 とおいて、n=(9m-3)/2 となればいいですね。
nが整数であるためには 9m-3 が偶数であればよく、これはmが奇数なら満たされます。
つまり、m=2k+1 としてkは整数でよいことになります。
こうすると n=9k+3 となり、さらには d=11k+3となります。
このdは任意の整数kに対してaを整数にします。
ではこのときbは整数になるのでしょうか。
ならなかったら今と同様のことをしていかなければなりませんが、
8d+9にこのdを代入すると88k+33となり、11の倍数になりますね。
つまり、このときはbも整数になるということです。
もちろんこのときはcも整数になります。
よってまとめると、d=11k+3 (k∈整数)に対してa,b,cは整数になります。
このk=0の場合が解答例に出した(a,b,c,d)=(1,-1,2,3)です。
例えば k=1 の場合は d=14 となり、(a,b,c,d)=(-12,-4,10,14)という
整数の組が答えとなります。
先に述べたように、別にこの問題は「整数の組」を答えにするように
要求してはいないので、dは好きな数でよいのですが、
「整数の組になる解答例をどうやって見つけたか」には、
このような背景があるのです。
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